4月24日に、ノンヂュアリティのことを知って今日でちょうど5ヶ月。そのあと行ったシッター先の机の上にさりげなく存在した”I am that”という本を読んでみると。
「私は身体だ」という観念を超えていきなさい。そうすれば、あなたは時間と空間があなたのなかにあり、あなたが時間と空間のなかに在るのではないことを見いだすだろう。
わたしは体だとしっかり思っているなぁ。でも時間や空間がわたしのなかにあるという時のわたしは自我のわたしでなく”I am that”のthatかなぁ。
体がわたしでなかったらわたしは物質として存在しない意識だけということで、わたしはいないっていうんだなぁ。
その意識も、つぎになにを思うのかどんな行動したいと思うのが予測ができないから、そいうい意味で主導権がないから自分はいないということなんかなぁ。
今日は雨のなか散歩で、すばやく用をすまして家に戻るリース。でもそのあとすぐに晴れてきた。
ここで何気なく本棚にあるを見てたら、”生物と無生物のあいだ”という本があって、面白そうなのでよんでたら、
”肉体というものについて、私たちはみずからの感覚として、外界と隔てられた個物としての実態があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体はたまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい『淀み』でしかない。しかもそれは高速で入れ替わっている、この流れ自体が『生きている』ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく行く分子との収出が合わなくなる”。
個体としてとらえてた身体が、密度が高まっている分子のゆるい『淀み』とすると、わたしの身体も見えてるけどただの分子のよどみか。。。
この間は、プレゼントありがとう!
なんか難しそうな本読んでるね。
私は自分の体は神様から借りた入れ物だと思ってるよ。
本当の自分はたぶん、生きている意識体?こうして思考している部分だと確信してる。それは脳みそとか心臓とかの形有るパーツではない。
だって、今迄知人や友達の葬式で見た彼らは彼らではなかったよ。それはまさに入れ物だと思った。
確かに対話したりコミュニケーションする時には相手の外観を見て相互の存在を確認しているけど、それはあくまで存在の確認だけでコミュニケーションのごく一部でしかないはず。もっと深い意味でのコミュニケーションは視覚以外の部分で行なわれているんじゃないかな?
自分(実体)とは他者とコミュニケーションし、また内なる自己とも対話(コミュニケート)する存在。
例えば聴覚や嗅覚も発生源は形あるOrganだけど、それだけじゃない。
もっと大雑把な言い方しちゃえば、自分を含めて存在を認めるってことは目玉で相手を見る事だけでなく意識的な要素の方が大きいと私は思ってるヨ。魂の共鳴的な。
もちろん身体も重要な要素に変わりないんだけどネ。(笑)
今まで読んだ事のない、選びようもない本が行く先崎に蒔き餌のようにあるのよ。。。それでその本の内容ががまたバランスよい数珠つなぎになってる?気がする。ああー