ほそーくつづいてる pass me a smile

そっくり写真みたいにそのままでない、とよものフェルト猫。

毎回しっぱいしたり、目の位置は絶対3回くらいやりなおしてる。

だんだんわかってきたのは目と顔と鼻周りのバランスがかなり大切なポイントということ。ねこによって鼻というか口をふくめた部分がよくみるとバランスがそれぞれちがう。そこができてないと、他をいくら修正してもこころがはいらない。こころがはいるとフェルト猫はだんだん誇らしげな雰囲気をかもしだしてくる。毎回こんな効率悪い仕事はもうやめたい(自分に技術がないからやのに他のせいみたいに思い込む性格)とかいう気持ちがこころをよぎるけど、完成してオーダしてくれた人からの声が届いた時、なんともいえない気分になる。

2008年にpass me a smileを出版した時も、一人の男の人から親が亡くなってからもう5年笑うことがなかったけどあなたの作品のintrovert cat with guts をみて大笑いしました。というメールをもらったときのあたたかさ。今回もオーダーしてくれた人が、猫を亡くしてから心から笑えましたとメッセージをいただきとよももあたたかいきもちに。これがとよものやりたかった

pass me a smile.

ペットシッターの仕事も友達を通じてのネットワークがどんどん拡大してきて、今や一年の殆ど家に帰ることがないくらい。自分にできることで人の役に立てることはうれしいことだ。

勉強も運動もできなくて学校では透明人間人生がちょっとづついい方向にむいてきた。

うまくいけへんねん。

現地の陶芸教室3つ目のとこで、創った作品が好きなんやけど、首の下にガッツリヒビが入ってる。。。。

もう一回おんなじの作ってこんどは全体の厚みを統一しててみよかな。

そんなこんなでなかなかうまいこといけへんきょうこのごろ。

胸に穴開けたんはそこに花を生けれるかーもと思たけど、底にもがっつりヒビが入ってる。。。そんな今日この頃。

変化の瞬間

緑がこゆい庭とみみちゃん

おおむかし、LPレコード買ったのは、ビングクロスビーのホワイトクリスマス(母へクリスマスプレゼント、あっ!でもこれ売り切れで買えなかったんや、でも家にかえったらそのLPがそこにあった、母が先に購入してた!)と森田童子のGOOD-BY

なんでか今日YOUTUBEで森田童子を聞きまくり、大昔どうやってこの人を知ったのかも思い出せず(1970年ごろ?)、でもやっぱり森田童子の音楽にすごい影響されてる感がふつふつとわいてきた。井上陽水や荒井由美のレコードはともだちに借りたのにこれだけは友達もきっともってなかったんやとおもう。

たぶん森田童子の歌詞の中に太宰治という名前をみつけて、読みはじめたのかも。

その瞬間にぎゅーって湧いてくる、感情があってそれがなんかちからになって自分のなかに吸収されてとよものどっかにつみかさなってて、ふとした拍子にぽろんとでてくる、きっとそのタイミングも完全完璧なもののような気もする。

昨日来年2月ごろにともだちと二人展するカフェ本屋、ヘアサロンをみてきた。ATELIER by RENCOUNTER

ちっちゃいスペースでギャラリーとちがい本やヘアカット用の鏡や椅子がおいてある。

もらったカードには、

Design 空間 本

人の手によって作られた雑貨を通じて

地球に 自分に やさしいライフスタイルを

みなさんと一緒に探し続けたいと思っています。

とかいてある。

自分の作品を展示販売するだけでなくその空間をおとずれたひとたちに何か変化をもたらす今、瞬間をつくりたいなぁ。。。森田童子がわたしにくれた瞬間みたいに。

 

 

すべては自然にきまってることのなかでただすぎてゆく

今はマロンの家に来ています。クリスマスツリーが家にあるのを見るって何十年ぶりやろ。ちょっとこころがわくわくする。

わたしはとよもなんか信じてませんから!

さて今年も終わりということで、今年は日本人が多く日本語で教えてくれる陶芸クラスから、現地オーストラリアの陶芸クラス3つをはしごしました。

最初はみんなに馴染むのに苦労したけど、よくよく掘り下げてみると壁をつくってたのは自分やで。むかしから銀行の防御ガラスみたいに瞬間に下からあがってくる壁をつくるのは得意で、つくったはいいけど下げるということがよくわからないままけっこうな壁を人との間に残したまま時が過ぎていってたなぁ。その時はすべて相手が悪いっておもてたからね。

いまやっとわかった。

すべては自分や、自分で壁作って自分で取扱注意人物になって、どんな人も自分の思いをひっつけてそれを正しい評価とおもい、自分の考えと違う人は攻め、かわいそうな自分を製造してた。

あーこわい。

でもカサブタを無理に取るようなとよもなので、怪しい自分をはっけんしてからは、どんどんじゅずつなぎにほんまの自分が出てきた。

いままでと、真逆

繊細で傷つきやすく人見知りとおもてたのが、ほんまはこころは強く人に認められたいきもちがあった。なんでもできないといってたほうが、今のままで変わらないでいいからやったんや、できない自分を演じてた。それはほんまはできるとかいう意味でなく、ただその地点から動くのが、変化がこわかったというか習慣になってた。

まぁね、そのままの自分を受け入れたらあとはなんにもすることはない。

ついでに、そのままの他の人もうけいれる。

それでも、ながねんの枠はなかなか壊れへんから、自動反応でまたまた相手のせいにしたりもするけど、ちゃうちゃうってわかる、ちょっとあとで。

瞑想クラスに行って何事もジャッジすることやめること教わってから3年以上してやっとほんまにその意味が自分の体験からわかってきたんかな。

 

おとといの朝、庭に降りたら向こうから羽をひろげた鳥が駆け寄ってきて、おっきな口あけてついてくる、こりゃあなにかあげやなっておもい、ミューズリーに水をいれてやわらかくして、葉っぱで口の中に入れるとはむはむと飲み込んだよ。そのあと、土掘ったら細〜いみみずがでてきて、鳥はすぐに見つけて上手にくちばしでつかんでたべたよ。何回かミューズリあげてたら満足したのか鳥の子供は羽をもんわりふくらませたり、くちばしで羽を梳いたり、片一方の羽を足とともにキューっとひろげたりしてから、暗いところにいってちんまり休んでた。

そのあいだに動物好きなともだちにメッセージして、『鳥の子供落ちてるのどうすればい?』ときいたら自然動物保護団体のこと教えてくれてそのサイトをしらべてみた。

鳥はマグパイでそのサイトによれば、親がある程度育った小鳥を巣からおとして自立の道を歩ませる、でもそのあいだ親はずっと小鳥のことみていて、餌も運んでくるから大丈夫。ぜったい人間の食べ物をあたえないように。

ってあげてしもた。。。

とよもが二階の自分の部屋にもどってると、その鳥もついてきて玄関でまたぴーぴー羽をひろげてる。コンピュータにかくれて潜むとよも。一時間もしないうちにおっきなマグパイがベランダの柵におりてきた。おかあさんがきたよーすごいな。ごはんをあげてるのはみなかったけど、自立できるまでちゃんと守ってるんや。

すべては自然にきまってることのなかでただすぎてゆくんや。

首を傾げてとよもの顔みるしぐさがかわいい。触っても怖がらなーい。