すべては自然にきまってることのなかでただすぎてゆく

今はマロンの家に来ています。クリスマスツリーが家にあるのを見るって何十年ぶりやろ。ちょっとこころがわくわくする。

わたしはとよもなんか信じてませんから!

さて今年も終わりということで、今年は日本人が多く日本語で教えてくれる陶芸クラスから、現地オーストラリアの陶芸クラス3つをはしごしました。

最初はみんなに馴染むのに苦労したけど、よくよく掘り下げてみると壁をつくってたのは自分やで。むかしから銀行の防御ガラスみたいに瞬間に下からあがってくる壁をつくるのは得意で、つくったはいいけど下げるということがよくわからないままけっこうな壁を人との間に残したまま時が過ぎていってたなぁ。その時はすべて相手が悪いっておもてたからね。

いまやっとわかった。

すべては自分や、自分で壁作って自分で取扱注意人物になって、どんな人も自分の思いをひっつけてそれを正しい評価とおもい、自分の考えと違う人は攻め、かわいそうな自分を製造してた。

あーこわい。

でもカサブタを無理に取るようなとよもなので、怪しい自分をはっけんしてからは、どんどんじゅずつなぎにほんまの自分が出てきた。

いままでと、真逆

繊細で傷つきやすく人見知りとおもてたのが、ほんまはこころは強く人に認められたいきもちがあった。なんでもできないといってたほうが、今のままで変わらないでいいからやったんや、できない自分を演じてた。それはほんまはできるとかいう意味でなく、ただその地点から動くのが、変化がこわかったというか習慣になってた。

まぁね、そのままの自分を受け入れたらあとはなんにもすることはない。

ついでに、そのままの他の人もうけいれる。

それでも、ながねんの枠はなかなか壊れへんから、自動反応でまたまた相手のせいにしたりもするけど、ちゃうちゃうってわかる、ちょっとあとで。

瞑想クラスに行って何事もジャッジすることやめること教わってから3年以上してやっとほんまにその意味が自分の体験からわかってきたんかな。

 

おとといの朝、庭に降りたら向こうから羽をひろげた鳥が駆け寄ってきて、おっきな口あけてついてくる、こりゃあなにかあげやなっておもい、ミューズリーに水をいれてやわらかくして、葉っぱで口の中に入れるとはむはむと飲み込んだよ。そのあと、土掘ったら細〜いみみずがでてきて、鳥はすぐに見つけて上手にくちばしでつかんでたべたよ。何回かミューズリあげてたら満足したのか鳥の子供は羽をもんわりふくらませたり、くちばしで羽を梳いたり、片一方の羽を足とともにキューっとひろげたりしてから、暗いところにいってちんまり休んでた。

そのあいだに動物好きなともだちにメッセージして、『鳥の子供落ちてるのどうすればい?』ときいたら自然動物保護団体のこと教えてくれてそのサイトをしらべてみた。

鳥はマグパイでそのサイトによれば、親がある程度育った小鳥を巣からおとして自立の道を歩ませる、でもそのあいだ親はずっと小鳥のことみていて、餌も運んでくるから大丈夫。ぜったい人間の食べ物をあたえないように。

ってあげてしもた。。。

とよもが二階の自分の部屋にもどってると、その鳥もついてきて玄関でまたぴーぴー羽をひろげてる。コンピュータにかくれて潜むとよも。一時間もしないうちにおっきなマグパイがベランダの柵におりてきた。おかあさんがきたよーすごいな。ごはんをあげてるのはみなかったけど、自立できるまでちゃんと守ってるんや。

すべては自然にきまってることのなかでただすぎてゆくんや。

首を傾げてとよもの顔みるしぐさがかわいい。触っても怖がらなーい。

 

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