去年に創ったりんさんのフェルト猫、摘みたての茶畑でなにやら誇らしげな感じ。フェルト猫の製作はいつもすごいこわい、うまくできない(今まで何回も失敗してる)、きっと似てないとかおもう心が立ち上がってくるから。集中して創ってると全体が見えなくなって、写真を撮ってみてからはじめて、えっ!似てないやんとかわかる。肉眼で見たのと写真を撮って見たのとではなんだか違う、いつも違う。毎回今回で山超えたとおもっても、次作る時はまた山の下になぜだかもどってる。。。それじゃあいつまでたっても自信がないままやん。おかしいなぁ。
りんさんをオーダーしてくれた方たちがとよもがつくったりんさんを毎日大切にしてくれていろんなところにも連れて行っていてくれているらしい。ふとおくられてくる丁寧な文章の中には、ほんとうに必要とされてるりんさんがいる。フェルトで創られたりんさんに家族のかたたちが寄り添っていくことでそこには何かが産まれている。そしてそのなにかがとよもにも送られてくる。いなくなってかなしいけど、すごく楽しい日々を思えばそれはいつもそこにある。
そういうことはやっぱりすばらしい経験。(ここから気分がかわる。。)
人も物もみんないっしょ。自分もとなりのおっちゃんも、木も、つくえもつきめれば粒子になるから、いっしょ。詳しいことはわからないけど色々違うかんがえもあるけど、とよもはなんだか最近そうおもう。
おこってることが、悪いことでもいいことでもなく、ただ経験としておこってる、それを受け入れていくだけ。これから電車に乗って家に帰るとかそういう計画はあっても、電車でなにがおこるか、道でなにを見て何をおもうのかは誰もわからない。電車に間に合わなかった人が、すごいちくしょう!とかいうかんじで怒ってるのを電車から見て、それは怒ってもどうしようもないからそんやなぁとおもう。変に心配したりし、後悔してもしょうがないこと。
悲しみもそうかな、
それならなんでも、うれしいことにしとこ。
家賃上がっても、なんかあたらしい場所でなにがあるかわからないことがうれしい。毎回悩むフェルト猫製作も悩むと思う心の癖で実際は100%仕事としてこなせてるし。なーんや。変に考える癖はながねんかけてつくったから、いつもでてくるけど、そのたびにちゃうちゃうっておもうことをくりかえす。
繰り返すをひっくり返す
2月に亡くなった友達が植えた木に昨日花が咲いてた、いつもおもいだすと苦しい気持ちになってたけど、その花みて、ああ生きてるんや、太陽浴びで成長して喜びを表してるんやってすごいかんじた。