犬や猫やうさぎは人と話ができないから、とよもは一緒に暮らす動物が何を考えているのかどうしたらいいのかに氣をめぐらせる。
氣=旧漢字の氣は全身から末広がりで八方に広がるエネルギーのことを意味しているらしい。
※第二次世界大戦後、日本はGHQによって統治となります。そのとき、漢字の見直しが行われ、「 氣 」は「 気 」となり常用化され、教科書にも「 気 」が採用されました。
自分の勝手な氣(勝手な氣もあるのか?)を知らず知らずのうちに他人および動物達におしつけてることもある。そのことが回数を増すうちにわかってくる。わかりやすいできごとは猫に構い過ぎ『うざい!』って激しく噛まれたシッター初期。
自分の思う通りにケージに入ってくれないうさぎにイライラしてどうしようもなかった時、もうええわ〜とその氣をすてて(入れという氣をなくし)、じぶんのことをしだした瞬間後ろ見たら、うさぎがひょろっと勝手にケージに入ったこともあったなぁ。
今回の犬のリースは体が大きい、体が大きい分氣もでかいきがする。言葉のかわりに人間みたいに態度や目で語ることもできる。なのでとよもも押つけしない、というか押し付けても微動だにしない。リースは自分の肉体が年老いてきたこということは考えになく体の変化にともなって今そのままを生きてる(これはリースのおかあさんが教えてくれた)。
考えてみたら人間もいらんこと考えて心配せんと、リースみたいに生きたほうがいいかもなぁできたら。それが自然にいきるということか。
昨日、ふとみた本棚にあったトルストイの”人はなぜ生きるのか”のなかに
以下抜粋
人にはなにがあるのか=人には愛がある
人には何が与えらえてないのか=人は1年先のことを準備できても、その日の夕方まで生きられないことは知らない。
人はなんのために生きるのか=神は人がばらばらに生きるのを望んでいないので、人それぞれが自分だけのために何が必要かを知らしめていない。人が一緒に生きるのを望んでいるので、自分とすべての人のために何が必要なのかを知らしめた。
人にだけあるとおもわれるもの、それは人は自分のことを考えて生きているが、実は人は愛によってのみ生きているということです。
愛してる人神のうちにあり、神はそのひとのなかにあります。
抜粋おわり
簡単に言えばいつも他人に愛の目を持って生きていったら人は神になるということかなぁ。
逆にいつも他人に愛を見出せず、悪者にしていたらあかんよっていうことや。
氣をめぐらせ愛を持って他をみつめる。
いつもシッター先には撒餌さのように、実体験とおつげのような本があるそれはもう、数年つづいてる。